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『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』 by Youki Takai

7/16(土)に公開を控えた話題のバンクシー初監督作品、『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』
CINRA.NETで車上特別試写会が当たったので一足先に行ってきました。

場所は渋谷。都内各地で見かけた人もいるであろう、こちらのバンクシーカーに乗り込んでの車上試写会。残念ながら車内は撮影禁止だったので写真はないけど、大きめの液晶ディスプレイに5席の革張りソファといった内装。

バンクシーカーが走りだすと同時にいざ上映開始。走りながらの鑑賞だったけど取り敢えず酔わなくてよかった(笑)。当然外は見えないしどこをどう走ったのか分からなかったけど、渋谷のグラフィティを巡りながらとかだったら一層面白かったかも、というのは贅沢か。

 

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90分間の本編を観終えて。
これを「バンクシーの映画」と呼ぶのは適切じゃない。ただ、まさしく「バンクシーの監督作品」。多分そういう映画。

タイルで作ったインベーダーをストリートに増殖させ続けるスペース・インベーダーや、「OBEY」の文字と共にアンドレ・ザ・ジャイアントをモチーフにしたステッカーを世界中にばらまいたシェパード・フェアリーなどのグラフィティ・アーティストの活動を追うドキュメンタリーから始まり、ストリート・アート界に彗星のごとく現れた「彼」の姿を通して現代アートシーンを描く。

正直、元々グラフィティ・アート、ストリート・アートについては全然詳しくなくて、本当にこの映画を観ながら知っていった感じなんだけど、ただの「落書き」ではなく「アート」のくくりで語られる理由が分かった気がする。

“最初はただ内輪のジョークだったんだ。ただ、内輪のジョークでも、同じ物が街中に増えていけば、何かそれが意味を持つように見えてくる。見る人が勝手にその意味を議論するようになる” (シェパード・フェアリー「OBEY」「アンドレ・ザ・ジャイアント」について)

個人的にはアートの定義のひとつとして「既存の価値観に疑問を投げかけ、別の視点を提示するもの」というのがあると思う。そういう意味では確かにストリート・グラフィティにはアートの本質と通ずる部分がある。
バンクシーがガザ地区の隔壁に描いたグラフィティなんかもまさに、銃弾飛び交う場所にある壁の存在を改めて問いかけているという意味で象徴的だし、だからこそ注目を浴びたんだと思う。
グラフィティ・アートは、「見慣れた日常」であるストリートにある建造物をヴァンダリズムによって“破壊”することで、半強制的に別の視点を見るものに提示する。この間のchim↑pomの『明日の神話』の件が一種のハプニング・アートとしてバンクシーと比較されるのも多分そういうことだろう。

また、主人公である「彼」が初めてアーティストとして活動を始め、その魅力に取り憑かれ、のめり込んでいく様子も興味深い。
アーティストとして制作活動を行う上で、ストリート・アートとその他の現代アートで異なる点を挙げるとすれば、きっとこの2点だと思う。
ひとつは「誰にでも見てもらえる」ということ。
ふたつ目は「反応がダイレクトにある」ということ(それが作品を消されるということや、逮捕のリスクという形であったとしても)。
これは非常にインターネット的というか、通じる魅力・近しい特性があると思う。注目されるべくして今、注目されているのかも知れない。

ネット的といえば、本編のクライマックスである「彼」がスターダムにのし上がる契機となったショーの場面も当てはまる。
詳しくは触れないでおくけど、「彼」はいわばオープンソース、クラウドソーシング的な型破りな手法で一大ショーを作り上げ、大成功を成功を収める(収めてしまう)。

既存の価値観・ルールへのカウンターとしてストリート・アートがあるとして、さらに今までのストリート・アートですらカウンターにしてしまう「彼」の在り方を目にしたとき、元々のタイトルとして予定していた『クソのような作品をバカに売りつける方法』、そして最終的につけられた『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』というタイトルが意味深に迫る。「カワイイはつくれる!」じゃないけど、「アートはつくれる!」というか。きっと観たら最初に “これを「バンクシーの映画」と呼ぶのは適切じゃない。ただ、まさしく「バンクシーの監督作品」” と書いた意味が分かるはず。

特に後半、端々ににじみ出るこのメタ的な批評には何度もニヤリとさせられた。
でも、そんな小難しいことは置いておいたとしても、陳腐な言い方だけど、思い込んでやり切る強さや行動力のもつパワーが不思議と清々しい。

『名前のない少年、脚のない少女』 by Youki Takai

レビューを読んで気になっていた映画『名前のない少年、脚のない少女』の東京公開が昨日までだったので駆け込みで観てきた。初のシアター・イメージフォーラム

映画自体は、ストーリーというよりは主人公の心象を投影したような画のコラージュに近い。

正直、そこからプロットを読み取ろうとするのはすごく難解だった。

後から知ったけど、舞台はブラジルといっても、南部のドイツ系移民が集まるエウトニアという小さな町らしく、文化的な背景とか空気感を探りながら観なきゃならなかったのも一層それを難しくしてたと思う。
(というかあらかじめ公式サイト見てから行けばよかったって話ですね…)

そんな難解さも手伝って、第一印象は、自己陶酔的な映像と観客に文脈の読み解きを委ねる一種の傲慢さが一言で言えば自主制作っぽいなーと。

ただ、これについては監督自身がこう言っているので、狙ってたというか自覚的な部分はあったのかも。

これは、例えば隠れたトリックが最後に明かされて驚かせるような映画ではなくて、感情の映画であり、感覚的な映画なんです。

実は主人公「名前のない少年 “ミスター・タンブリンマン”」(エンリケ・ラレー)も「脚のない少女 “ジングル・ジャングル”」(トゥアネ・エジェルス)も、キャストはみんな実際に舞台となったエウトニアで暮らしているティーンエイジャーたちから選ばれているとのこと。※参照

27歳(当時)という監督の若さや、少年たちの一種のドキュメンタリー性ももしかしたら「自主制作的」と感じさせたひとつの理由だったのかもしれない。

また、劇中に登場するジングル・ジャングルのYouTubeflickrは今でも実際に公開されている。

映画を観たあと、僕らは実際にこれらにアクセスすることによって、主人公の感覚を追体験することができる。

劇中のものを現実に持ってくるのは映画の企画としてはそんなに目新しいことじゃないけど、リアルな生活に居場所を見つけられず閉塞感を抱えながら、今はもういないネット上の少女の世界に惹かれ耽溺していく少年を描いたこの作品に関しては、ここまでしてやっと「一本の映画を観る」という行為が完結するのかもしれない。

正直、ここまで書いててもまだラスト15分間は理解できてないし、誰にでも面白いとおすすめできる映画かというとたぶん違うけど、その時の気持ちのコンディション次第で何度でも違う感じを受け取れそうな気がするという意味ではもう一度観たいし、分からないなりに色々語りたくなる映画だとは思う。

東京は終了しちゃったけど、横浜はじめ各地では順次公開とのことなので興味があればどうぞ。