改めて、アートについて考える / by Yuki Takai

 

2014年3月、このアートフェアの季節にまたひとつ、3331 Arts Chiyodaで新しいアートフェア「3331 Art Fair ‒Various Collectors' Prizes‒」が始まります。

今回、island Japan伊藤悠さんとのご縁で、このアートフェアの企画に携わるチャンスをいただきました。ここ数年間はずーっとアートとアートを買うことについて色々と考え、もがいてきましたが、3年前の「Welcome! Art Office」から始まったこのご縁で、いよいよそのイシューど真ん中であるアートフェアという形でアクションを仕掛けられるのが楽しみです。

それに際し、自分のアートとそれにまつわる諸々に対するスタンスの再確認も兼ねて、勝手に「3331 Art Fair ‒Various Collectors' Prizes‒ 開催に寄せて」という体で、ここ数年間ブログやtwitterで綴り、収集してきた言葉を棚卸しして、改めてぎゅっと凝縮・再構成してみたいと思います。きっと俺的アート論のベストアルバム的なエントリになるはず。

※引用元はリンク先にてご参照ください。

 

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アートとは何なのか。何が面白いのか。

 

ここでいう「アート」とは、すべてとりわけ「現代アート」のことを指す。

きっと多くの人が漠然と抱いてる「よく分からない」もの、というイメージはたぶん、実はある意味とても正しくて、とてもアートの真理を突いていると思う。なぜかというと、アートというのは「新しいものの見方の体験」であり、今の社会に対しての「問いかけ」だから。既存にない新しい価値観で、「答え」ではなく「問い」だから、すぐに分からないのはある意味当然で、そこにこそアートの役割がある。むしろ、この社会の中で「理解」という理屈抜きに体感できる希少なものだからこそ面白い。

アートという、自分の考え方や価値観を拡張させる「思考のツール」に触れることで、新しい「世界の見方」を獲得することができる。端的に言えば、それがアートの「機能」であり、面白さ。そしてそれは、社会的な責任や拘束から自由な解釈可能性を与えてくれるという意味で、未来の希望でもある。アートのそういうパンクなところがたまらなく好きだ。

 

そしてもうひとつ、現代アートの醍醐味は、まさしく「現代」というところ。つまり、「今」に生きるアーティストが「今」の世界に対して「今」表現しているものが現代アート。それを当事者として楽しめるのは今しかない。

そして当たり前だけど、同時代に、同じ社会で何かを感じて、表現をして、作品を販売して、生きている人がいるというところ。それだけで食えている人なんて、一握りどころかほんのひとつまみもいないと思う。でも、そんなに厳しくても、作らなくてはいられないほど表現することが好きな人たちがいる。そんな生活かけて打ち込んでる人の、好きなことについての話が面白くないはずがない。それが聞けるのはともに同じ時代を生きる「現代」アートだから。現代アートは今を生きる僕たちのものだ。

 

アートを「買う」ことの意味と面白さ。

 

こればかりは、「とにかくまずはひとつ買ってみてくれ!」としか言えない。買ったらそれがどんなに豊かな意味を持ってるか分かるはず。そしてそれは小難しい意味どうこうの前に、単純に、アートを観る以上に「面白い」

もちろん値段によって得られる体験や見えるものはまた違ってくると思うけど、この「面白さ」の本質は値段じゃない。たとえ少額でも、他のモノを買うのとは違う真剣さ高揚感がある。

それはきっと、「価値観のぶつかり合い」が起こるから。前述の通り、アートって基本的に「分からない」もの。それに対して、日々常に向き合っている、「価値」の代名詞みたいな「お金」で値がつけられている状況が、より一層「新しい価値観」との遭遇を後押ししてくれる。値段という市場価値や作家(やギャラリー)の評価を比較基準として、自分がその作品のどこにどれだけ価値を感じ、どう位置付けるのかを感じる手がかりにできるから。そこで感じるギャップ、価値観の相違こそが「新しいものの見方」。

だから真剣になる。シャツを買うなら迷わず出せる1万円でも、相手がアートとなった途端に「それだけの価値があるのか」と悩み、迷い、それでも惹かれて、「ええい!」と一大決心をして買う。そして、「買う」ってことは、ある作品という価値の不確定なものに対して価値を認め、評価を付けるという行為でもある。売る側としては値段をつけるだけならいくらの値をつけようが勝手だから、その作品の「価値」は買われることで初めて認められ、「生まれる」。つまり、新しい価値を生み出すという意味では、アートを「買う」ことはアートを「作る」ことと同じくらい重要なクリエイションだと言える。

 

もちろん、「買う」という行為だけでなく、アート作品という商品そのものにも他のモノにはない特性がある。それは、基本的には「この世にひとつしかない」ということ。

アートというメッセージ性の高いものを、一大決心をして選び手に入れたということは、「自分はこれの価値を知っている」という自己表現であり、それがたったひとつしかないということは、その自己表現は最初にその価値を発見し、買ったその人だけに許された権利だということ。アートとは、ファッションよりも、音楽よりも、自分自身の個性や価値観を表現できる趣味嗜好でもある。

 

そして、現代アートは買った後も「育つ」楽しみがある。

アートは「問い」だから、時が経ってから向き合えば、最初にその作品の前で感じたのとはまた違うイメージや感情、「答え」が浮かんでくることもある。そういう自分を写す「鏡」としても育っていくし、現存するアーティストだからこそ、自分が価値を認めた作家と作品が、この後どういう道をたどっていくのか、世間からどういう評価を受けていくのか、そういう意味で育っていくのを見るのも楽しい。単純に投機的な意味だけでなく、いつかもしそのアーティストが世界的な評価を得たら、「ずっと前からすごいと思っていた」という目利き感も味わえるかもしれない。

このアーティストが次にどんな作品を生み出すのか、それを一番楽しみにできるのは、作品を買った人。自分が払ったお金がアーティストのご飯や絵の具になって、次の作品になるというつながりが感じられるから。そこには、CDを買って一票投票するよりもっと直接的に、アーティストの人生と100年生きるかもしれない作品に関わってる手応えがある。

 

そう、いつか数万円で買った作品も、自分の人生よりずっと未来まで残るかもしれない。それがもうひとつ、「伝える」というアートの面白さ。

これはかなり上級で高尚な楽しみかもしれないけど、コレクターの本質的な役割でもある。まだ誰も見つけていない価値を発見し、買うことで価値を定め、未来に届ける。それは作品の価値が分かり、幸運にも買うことができたコレクターの「ノブレス・オブリージュ」。

もちろん全部が全部後世まで残るわけではないし、「結局価値を認めたのはアーティスト本人と買った自分だけでした」ということもざらにあるだろうけど、それでもアーティストと価値観の真剣勝負を重ねて磨いた感性は失われることはないし、きっと道楽としてはかなり割のいい趣味のひとつなんじゃないだろうか。

何より、“100年後もどこかの家にかかっている作品が、今は自分の家にあるって思ったら素敵じゃない?

 

 

ここまで2,500字以上かけて綴ってきたけど、少しでも何かが伝わったならぜひ実際に体験してみてほしい。初めてアートを買った時の「あぁ、買えちゃったなーっていう謎の感慨」とか、「決断するのにもの凄く必要だった勇気」とか、その後の「なんとも言えない達成感」とか、「この世にひとつしかない物を所有できる幸福感」とか、「作家の歴史を預かり大切に保存しなければという緊張感」とか、「運命論的な醒めた高揚感」とか、「買った後やけに饒舌に語りたくなる衝動」とか。

その場として、アートフェアはすごくおすすめ。ギャラリーよりずっと敷居が低いし、一度に幅広いアーティストと作品を見れる。何より、美術展のようにただ「鑑賞するもの」としてだけでなく、「自分が(買おうと思えば)買えるもの」として接すると、アートとの距離感が見違えて近く感じるから。さらに、直接アーティストやギャラリストと対話することで、アートが「全然別世界の存在が作ったよく分からないもの」ではなく、「同じ時代に生きるその人が同じ世界を別の視点で表現したもの」だと感じられる瞬間がきっとあるから。その視点や表現に、値札以上の価値を感じたら、対価を払って手に入れればいい。それだけ。小難しいことなんてない。アートと僕らの関係は、単純で、対等で、自由だ。

 

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「3331 Art Fair ‒Various Collectors' Prizes‒ 開催に寄せてとしてはここまで。ここからは、それを広げていくためのヒントを整理してみる。

 

「アートに触れる場所」はどうあるべきか?

 

上に書いた通り、「アートを買う」ということは「価値観のぶつかり合い」の末に「作品の価値を認めて規定する」ということだから、その前提として、観る者に対して「ぶつかり合う土俵に上げてもらえるだけの価値」は伝えなければならない。パラドックス的だけど、スルーされてしまってはそもそもぶつかり合いは始まらない。みんながみんな、上で書いたようなことをかけらでも認識して観てくれるなら無用の心配かもしれないけど、そうじゃないし、そういう人たちに「こちら側」に来てもらうような仕掛けをしていかないと、いつまでもアートは狭い内輪だけのもので、その外の人にとってはただの「よく分からないもの」のままで終わってしまう。もっとそれを伝える努力と工夫はできる余地があるはず。

 

「何を」伝えるのか。つまるところ、それはアート作品の「価値」なんだけど、もう少し具体的に紐解くと、一番伝えてほしいのは「アーティスト本人の言葉」。ただ「なんとなく」とかじゃなくて、ちゃんと本人の言葉で、自分の文脈で、意図を、思いを、伝えてほしい。つたなくてもいいから、自分の言葉で伝えて、こっちに「その志、買った!」って思わせてほしい。それが伝わる瞬間が一番ぐっとくるし、やっぱり作品がただあるだけじゃ分かんないから。

もうひとつは、「現代美術のコンテクストの中での位置付け」。今までと矛盾するようにも聞こえるかもしれないけど、「アートは分からないからいい」というのは、決して「分からないまま片付けていい」って意味じゃない。「分からない」ものに対して、自分がどう解釈するか、何を感じるか、どういう価値を見出すかが面白いポイントなわけで、言ってみればアートは作品の背景や意図を探って楽しむコンテクストゲームでもある。それを楽しむ一助として、何の事前情報もないまま「感じろ!」というスタンスで観るのと、参考までにだとしても、作家が本来意図した「解答例」や「楽しみ方」を頭に置いてから観るのとでは面白さが全然違う。自分の「答え」とアーティスト本人の「答え」が違ってもいい。その違いが面白い。

 

それらを「どう」伝えるのか。アートフェアや個展の場合は、アーティスト本人やギャラリースタッフが在廊して直接話してくれるチャンスがある。繰り返すけど、それは本当にアートフェアのいいところ。でも、それらも含め、広く「アートに触れる場所」がこれからまだまだ工夫できるところがきっとある。

例えば、キャプション。どういうタイトルが付けられているのか、それがいつ作られたのかという情報だけでも、作品の価値とコンテクストを探る手がかりになるし、ちゃんとあるのとないのとでは、作品に没入する心理的なハードルさえ変わりうる。解説シートなどのハンドアウトもそう。その作品のどこにどう着目すべきかのガイドとなり、作家や作品とライトコレクターになりうる一般消費者をつなげる存在=ブリッジメディアの拡充と設計が、アートの面白さを伝え、その次へ行く背中を押す上でとても重要だと思う。

 

そして、アーティストの言葉を伝えるのと同時に、それと同じくらい、観る人の言葉ももっと伝えてほしい。「自分の言葉にする」ことは、「自分の評価を下す」ことだから。それがもっと普通になっていけば、その評価の先に、アートを買ったり、「鑑賞」だけでないアクションがもっと広がるはず。やっぱりアーティスト側の言葉だけじゃだめで、それだけだときっと見る人はそれを唯一の「正解」だと受け止めて、そこで止まってしまう。そうじゃなくて、「でも自分はこう思った」とか、「また別の人はこう解釈している」みたいな、そういう言葉=評価が自由に飛び交う状況こそが、「色々な価値観があってよくて、その多様性こそが新しい可能性へつながる希望なんだ」というアートの本質を体現していると思うし、アートが機能しているっていうことになるんだと思う。そういう開かれた「批評空間」を作っていくことも、ギャラリーや美術館、アートフェアやイベントなど、「アートに触れる場所」がこれからしていかなければならないことのひとつ。

ただ作品を「観せてあげる」場所としてだけじゃなくて、そこに来ることで、触れることで、「感性を鋭敏にさせる媒体プラットフォームとしての機能」を目指す方向のコンパスとして、試行錯誤をしていこうと思う。

 

企みの走り書き

 

この「アーティストと作品を伝えるブリッジメディア」と、「見る人がその解釈を言葉にできる空間・仕掛け」こそ、インターネットとタブレットなどのスマートデバイスが絡むと面白いことになるはず。以前ステルスでコンセプトのテストをしたZulogはまさにそうで、実際に得られたフィードバックも思ったよりずっとポジティブなものが多かった。

このときは、美術館を想定していたから、作品の画像や情報を取り扱う権利問題をクリアするのが大きなハードルとして残ったままだったけど、アートフェアを舞台にして、買われる前の作品を対象にするなら、出展ギャラリーとアーティストの協力さえ仰げれば実現できる可能性があるんじゃないか?今回はどこまでそういう要素を仕込めるか分からないけど、その可能性はぜひ探ってみたい。

 

もうひとつ、いつかやってみたいことは、アートフェアを舞台に、みんなの「アートを買う」という行為を主役にして、それ自体をひとつのアート作品にしてしまうこと。

上にも書いた通り、「アートを買う」ってことは、それ自体新しく価値をつくる創作活動だから、いろんな人のその瞬間を捉えて、形にして、参加者みんなでひとつの作品をつくりたい。それがポートレートなのかムービーなのかは分からないけど、きっと、きらきらした真剣さとか高揚感とか達成感とか緊張感とか幸福感とかが結晶になったものになるはず。

 

アーティストと同じくらい、アートを買う人も主役になれる。それを目指す第一歩として、誰か偉い人から一方的に与えられる権威的な「賞」ではなくて、普通の色々な人たちが、自分の視点で、それぞれに見つけた価値を喜び、それを生み出したアーティストに「ありがとう」を伝えるような、身近で軽やかな新しい「賞」の形をつくりたい。その方が、対等で、多様で、パンクで、ずっとアートらしくていいと思う。

だから、今回のアートフェアのテーマは、「Various Collectors’ Prizes」。何十人もの人がそれぞれの価値を見つけられたらきっと何か変わる。 

その中でも、もっと20代とか若い人たちにもプライズセレクターとしてアートを買うことに目を向けるようになってほしい。現代アートは今を生きる「僕たちのアート」だから。初めての今年は、その思いを背負って、僕も最初のプライズセレクターのひとりとして参加します。

同世代の普通の人がアートを買って、好きな理由・買った理由を自分の言葉で熱く語るのを聞いて、いつかその人が「買う。私も私の価値を見つける」とこちら側へ一歩踏み出してくれる呼び水になれたらいい。

 

もし少しでも共感してくれる人がいれば、ぜひ頭(アイデア)でも声(拡散)でも足(来場)でもいいから力を貸してくれると嬉しいです。きっと面白いことが起こせるから。ご連絡お待ちしてます。

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